歴史・沿革

1927〜1952

昭和2(1927)年1月22日。田辺茂一が個人営業で現在地(東京・新宿3丁目)に創業。木造2階建て38坪の店舗で、階上にギャラリーを併設した。当時、従業員は茂一のほか、番頭、店員2名、小僧の計5名。新規開業のため、一般雑誌を置くことができず、同人誌や文芸誌、文学書や学術書などを中心とし、他書店との差別化をはかった。

写真:開店当時の紀伊國屋書店
開店当時の紀伊國屋書店
2月2階ギャラリーのオープニングは安井曽太郎らによる「第1回 洋画大家作品展」。その後、「佐伯祐三展」「東郷青児・阿部金剛展」などを開催。10月には今和次郎、吉田謙吉らによる「しらべもの展覧会」が開かれた。

写真:「しらべもの展覧会」会場
「しらべもの展覧会」会場

写真:新店舗の店内
新店舗の店内

写真:新店舗2階のギャラリー
新店舗2階のギャラリー
昭和3(1928)年2月文芸同人誌「文芸都市」創刊。同人に阿部知二、舟橋聖一、尾崎一雄、坪田譲治、梶井基次郎、今日出海、井伏鱒二ら(~昭和4年8月)。
5月木村荘八、今和次郎らを同人とした美術評論誌「アルト」を創刊(~昭和4年6月)。
昭和5(1930)年2月新宿本店新築、90坪。2階に講堂、外国語教室を作る。また、銀座6丁目に銀座支店(~昭和14年)、翌年には、上野広小路に上野支店開設(~昭和7年)。

写真:銀座支店2階のギャラリー
銀座支店2階のギャラリー
昭和6(1931)年2月新刊紹介誌「紀伊國屋月報」創刊、のちに「レセンゾ」と改称(~昭和10年10月)。
昭和8(1933)年6月紀伊國屋出版部設立。重役陣は田辺茂一、舟橋聖一、阿部知二ら(~昭和10年8月末解散)。
10月紀伊國屋出版部より文芸雑誌「行動」創刊。編集長は豊田三郎(~昭和10年9月)。
昭和14(1939)年1月文芸雑誌「文学者」創刊。同人に尾崎士郎、室生犀星、伊藤整、春山行夫、尾崎一雄ら(~昭和16年3月)。

当時のブックカバー 
今に続く、当時のブックカバー。
デザインは英文学者・古沢安二郎。「ぼくの描いた包装紙の意匠は、気付いていられる人も多いだろうと思うが、もちろんオックスフォード出版会社のマークにヒントを得たものである」(「創業50年記念誌」)
伊藤 整
「(昭和3年ごろの紀伊國屋は)入って左の壁ぞひに階段があり、その壁に色々なポスターを張ってあったのを覚えてゐる。左翼劇場、築地小劇場、音楽会、同人雑誌などのポスターが一面にはってあった」(「創業50年記念誌」)
井伏鱒二
「(「文芸都市」の5号か6号が出たころ)紀伊國屋の女店員が云ってゐたが、「戦旗」は店頭に並べた当日に百部売れ、「文芸戦線」は一週間に五十部売れ、「文芸都市」は一箇月に約三十部売れた。尤も「戦旗」は発売即日に発禁となるのが常だから、読者はそれを心得てゐて、店頭に出る日をねらって買ひに来る」(「創業50年記念誌」)
西川武郎
「紀伊國屋書店の銀座支店は六丁目東側の表通り/三間間口しょう洒な白塗りの木造二階建/赤煉瓦と柳並木に挟まれた電車道を越えて真向いが、パリ気取りのテラス・コロンバン。」「(ギャラリーの)表通りに面した窓は大きな一枚ガラス、当時はまだ流行していなかった間接照明などなかなか清新な雰囲気でした」(「創業50年記念誌」)
昭和20(1945)年5月戦災で店舗焼失。
12月焼け跡にバラックを建て、書店再開。
昭和21(1946)年1月16日。株式会社紀伊國屋書店設立。資本金15万円。
昭和22(1947)年5月前川國男設計による木造2階建て店舗新築。延床面積181坪。2階にギャラリーを併設し、「戦後書店建築の白眉」と評価される。

写真:外観 
昭和22(1947)年 外観

写真:階上から1階の売場を臨む
昭和22(1947)年 階上から1階の売場を臨む
昭和24(1949)年4月洋書課を設立し、洋書輸入を開始。
12月喫茶室(15坪)を新設。
昭和25(1950)年1月新刊紹介誌「紀伊國屋月報」復刊(~昭和26年12月)。
昭和27(1952)年1月「紀伊國屋月報」の後継誌「机」創刊(~昭和35年12月)。

写真:「机」。編集・デザインは北園克衛
「机」

写真:新宿通り。「犬屋」の看板も見える
新宿通り。「犬屋」の看板も見える

写真:新宿通りから店舗をのぞむ
新宿通りから店舗をのぞむ
前川國男
「(昭和22年の)新宿は/焼跡の灰燼の吹き荒れる中で、所謂「闇市」が立ち、焼跡の不法占拠が横行していました。紀伊國屋の敷地は/間口に比べて敷地の奥行はバカに大きい/新宿の表通りから裏路まで突きぬけた四百余坪の細長い敷地でした。表の新宿通りに面した部分には、記憶に残る「犬屋」さんをはじめ細かい店が十数軒もたちならんで/ちょっとやそっとで立退いて貰うわけにはゆきそうにありませんでしたので、已むを得ずそのような小店舗群を「門前町」といったかたちで残したまま、少し奥まって戦後第一号の復興建築としました」「(その後)二十五年以上の歳月に亙って、新宿の本店の改築をはじめとして、日本全国九州から北海道はおろか、北米のサンフランシスコにまで、大小様々な支店を設計して来ました」「細かい店内の表示板案内板の/デザインは亀倉雄策君をわずらわしてあります」(「創業50年記念誌」)
佐藤輝夫
「(昭和22年ごろ)二階建てバラックの、だだっ広い建物を立てて、その一足ごとにぎしぎしと音を立てる二階一面に、欧米の書物を並べたのも、(GHQから洋書輸入禁止が解かれた)輸入再開後まもない頃であった」(「創業50年記念誌」)
浜田正秀
「私の入社当時(昭和二十五年)は、紀伊國屋の従業員も、和書四十名、洋書二十名程度の陣容で、まことに牧歌的な雰囲気だった。フランス書が入荷すれば二階にはしごを掛けてバケツリレー式に本を運び、英書が入荷すれば自転車で英国大使館まで受け取りに行き、また、近くの郵便局までリヤカーでドイツ書の小包を取りに行ったこともあった」(「創業50年記念誌」)

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